- #200 学ぶと何が起こるのか21
答えのない問いを考える さらに、世の中には答えのない問いがあることを学ぶことができます。 私は小学生の頃、祖父、祖母、弟を次々に亡くし、人生には死というものがあることを知りました。 今はこんなふうに考えたり、感じたりしているのに、そのすべてが無になる。これほど怖いことはないと思ったのに、大人たちは死のことを何も考えていないように見えました。死ねば自分が無になるかもしれないというのに、死のことをまったく考えないでどうして笑って生きていられるのだろうか。私には不可解でした。 それなのに、私にとって一番の関心事だった死について親にたずねた記憶がないのです。 たずねたけれども答えてもらえなかったのではなく、あるいは、たずねたのに答えをはぐらかされたのでもなく、死については初めから親にたずねてはいけないと考えたのかもしれまん。 私は死について考え始めるとすべてが空しくなってしまい、長く鬱々としていました。そのことに親が気づかなかったとは考えられないのですが、どれくらいこの状態が続いたか、また、どのようにしてその状態から抜け出したかは覚えていません。死について考えなければ、無邪気に子ども時代を生きられたかもしれませんが、死というものがあることを知って思い煩った経験が哲学を学ぶ一つのきっかけになったのは間違いありません。 思考没有答案的问题 此外,我们可以学到,世上有些问题是没有答案的。 我在小学的时候,先后失去了祖父、祖母和弟弟,意识到人生中有死亡这回事。虽然现在我会这样思考和感受,但所有这些最终都会变成虚无。我曾经认为这是最可怕的事情,但大人们似乎对死亡毫不在意。尽管死后自己可能会变成虚无,他们却完全不考虑死亡,怎么还能笑着生活呢?对我来说,这是无法理解的。 即便如此,我却没有记得曾向父母询问过关于我最关心的死亡问题。不是因为我问了但没得到答案,也不是因为我问了但被搪塞了答案,而可能是我从一开始就认为不能向父母询问关于死亡的事情。 每当我开始思考死亡,一切都变得空虚,我长时间陷入郁郁寡欢的状态。我无法想象父母没有察觉到这一点,但我不记得这种状态持续了多久,也不记得是如何摆脱这种状态的。如果不思考死亡,或许我能无忧无虑地度过童年,但正是因为知道了死亡这回事并为此烦恼,这种经历无疑成了我学习哲学的契机之一。
- #199 学ぶと何が起こるのか20
『ゆっくり学ぶ』P080-081,原文和译文如下 【日文】 自分で考えることは大切ですが、他の人の考え方に振り回されないためには、まず人の話に耳を傾けなければなりません。自分の考えだけが正しいと思ってしまうと、そのことの方がより大きな問題です。 高校生の時に教わった先生が、ある日宗教心を身につけるのは非常に大切なことだという話をしたことがありました。宗教心は、幼い頃から神に祈ったり、仏壇の前で手を合わせるというような生活を送っていなければ身につかないというのです。 ところが、そのようにして育った人が、友人たちから神など存在するものかというようなことをいわれます。そのようなことをいわれても、自分と考えを異にする人にきちんと反論することで、自分の信仰の正しさをいよいよ確信する人もいるでしょうが、反論できず、親から無批判に受け入れていた考えが唯一絶対ではないことを知って、子どもの頃から育んできた宗教心を放棄するということもあります。 いずれの場合も、自分とは考えの違う人と議論する前と後とでは、大きな違いがあります。信仰について、大人から無批判に受け入れるのではなく、自分で考え、自分でどうするかを決められるからです。信仰することを選んだ人は、相手の考えにたとえ賛成できなくても、少しでも理解できれば、自分と考えが違う人に寛容になることができます。 信仰に限らず、「精神の習慣性を破る」ことになるかもしれない経験をしなければ独善的になってしまうので、自分とは違う考えを知ることは大切です。 【译文】 思考独立是重要的,但为了不被他人的想法左右,首先必须倾听他人的意见。如果只认为自己的观点是正确的,那么这反而会造成更大的问题。 高中时我有位老师曾说,培育宗教信仰是非常重要的。他认为,宗教信仰是从小通过祈祷神灵或在佛坛前合掌的生活中培养起来的。 然而,这样成长的人可能会从朋友那里听到诸如“神灵根本不存在”之类的话。即使听到这种话,有些人会通过与持不同观点的人进行辩论,进一步确信自己的信仰是正确的。但也有些人无法反驳,意识到自己从父母那里不加批判地接受的观点并非绝对唯一,从而放弃了从小培养的宗教信仰。 无论哪种情况,与持不同观点的人讨论前后都会存在很大差异。因为这使得我们不再无批判地接受长辈的观点,而是通过自己的思考来决定怎么做。选择信仰的人,即使无法赞同对方的想法,只要能稍微理解对方,就能对持不同观点的人更加宽容。 不仅限于信仰,如果没有经历过打破“精神习惯”的过程,我们就会变得独断专行,因此了解不同的观点是非常重要的。
- #198 学ぶと何が起こるのか19
『ゆっくり学ぶ』P078-080,原文和译文如下 【日文】 間違ったことを覚えてしまうと、その知識は有害なものになってしまい、正しく考えられなくなります。そうならないために、学んでいることが本当なのか疑う必要があります。 どんなことも鵜呑みにしないで疑えるようになるためには、自分で考えられるようにならなければなりません。 自分で考えるといっても、自分「だけ」で考えることでは、自分で考えられるようにはなりません。人から話を聞いたり、本を読んだりすることで、自分の考えとは違う考えに触れなければ、独りよがりになってしまいます。 本を読むにしても、自分の考えを持っていなければ、ある本を読むとそこに書かれていることが正しいと思い、また別の本を読むとそこに書かれていることが正しいと思ってしまうことになります。人の話を聞く時にも同じことが起こります。 自己中心性から脱却する 次に、自己中心性から脱却できます。幼い子どもは親の不断の援助がなければ片時も生きていくことができないので、親は懸命に子どもを育てます。しかし、子どもはやがて成長し、親の援助がなくても生きていけるようにならなければなりません。子育ての目標は子どもの自立です。 それにもかかわらず、親から援助されることが当然だと思ってしまう子どもは、大人になっても自分が世界の中心にいると考えます。そのような人は自分のいうことがまわりの人に受け入れられるという経験をして大人になったので、概して独善的で、自分の考えることが正しいと思いがちです。 学ぶことによって、このような自己中心性から脱し、世界には自分とは違う考え方をするひとがいること、自分が世界の中心にいるわけではないことを知らなければなりません。 【译文】 如果记住了错误的事情,那些知识就会变得有害,使我们无法正确思考。为了避免这种情况,我们需要怀疑自己正在学习的东西是否正确。不论是什么事情,都不能全盘接受,而是要学会质疑。要做到这点,我们必须学会独立思考。 但所谓独立思考,并不是指只靠自己一个人思考。如果不听取别人意见,不读书,不接触不同的思维方式,我们就会变得自以为是。即使读书,如果没有自己的观点,读了一本书就会认为书中的内容是正确的,再读另一本书又会认为那本书中的内容是正确的。听别人讲话时也是同样的道理。 摆脱以自我为中心 接下来,我们可以摆脱以自我为中心的思维。幼小的孩子如果没有父母的不断帮助,哪怕片刻也无法生存,因此父母会竭尽全力抚养孩子。然而,孩子终将成长,必须学会在没有父母帮助的情况下生存。育儿的目标是让孩子自立。 然而,有些孩子认为被父母帮助是理所当然的,这样的孩子长大后仍然会认为自己是世界的中心。这种人因为在成长过程中体验到周围人接受自己的观点,所以容易变得独断专行,认为自己的想法总是正确的。 通过学习,我们必须脱离这种以自我为中心的思维方式,认识到世界上有与自己不同的观点,自己并不是世界的中心。
- #197 学ぶと何が起こるのか18
『ゆっくり学ぶ』P077-078,原文和译文如下 【日文】 学ぶことで得られるもの 自分で考える力を身につける 人は学ぶことを通じて、何ができるようになるのかというと、まず、自分で考える力を身につけられます。例えばSNSで見かけたメッセージに書いてあることを鵜呑みにする人がいます。そのような人は少し考えるとおかしいとわかることが書いてあっても、それが正しいかどうかを自分で考えて判断しようとしません。 子どもの頃から学校で何かを教わっても、教師が話すことや教科書に書いてあることを無批判に受け入れてしまう人は多いように見えます。教えられたことを覚えるのが学びの中心になってしまうと、自分では考えられなくなってしまいます。 しかし、教師が教えることが間違っていることはありますし、教科書に書いてあるからといって正しいわけではありません。また、ある文化で生まれ育った人は、その文化で自明で常識となっている考えに囚われてしまっているので、常識となっている考えが正しいかどうかというようなことは考えもしないのです。 三木清は、次のようにいっています。 「精神の習慣性を破るものが懐疑である」 精神の習慣性とは、これはこういうものだと決めてかかったり、誰かがいっていることに安直に飛びついたりするようなことです。考えることが習慣化されると、本当なのかどうかを立ち止まって考えられなくなるのです。 学ぶということは、教師が話したことや教科書や本に書かれていることを無批判に受け入れるということではありません。試験ではとにかく覚えなければならないと考える人は多いでしょう。しかし、覚えるのと学ぶのは別のことです。覚えることに注力すると、考えられなくなってしまうのです。 【译文】 学习所能获得的 **培养独立思考的能力** 通过学习,人们首先能够培养独立思考的能力。例如,有些人在社交媒体上看到的信息会全盘接受,不加思索。即使那些信息稍加思考就会发现存在问题,他们也不会自行判断其真伪。 从小在学校里接受教育时,很多人对老师讲的内容和课本上的信息不加批判地接受。若学习的中心只是记住被教的东西,那么自我思考的能力就会丧失。 然而,老师教的内容有时是错误的,课本上的信息也不一定是正确的。此外,在某种文化中成长的人,往往会被该文化中的常识性思维所束缚,甚至不会去质疑这些常识是否正确。 三木清曾说:“打破精神习惯性的是怀疑。” 所谓精神习惯性,就是指对某些事物先入为主,或者轻易接受他人的说法。当思考变成一种习惯时,人们便无法停下来判断其真伪。 学习并不是对老师所讲的或书本上所写的内容不加批判地接受。许多人认为考前必须记住所有内容。但记住和学习是两码事。若只专注于记住,那么思考的能力就会丧失。
- #196 学ぶと何が起こるのか17
『ゆっくり学ぶ』P075-076,原文和译文如下 【日文】 何かを学んでいる時、モチベーションを維持できないという人がいます。結果を出せば学びは終わりますが、目的が達成できればモチベーションもなくなるのは当然です。 それでは、モチベーションを維持するためにはどうすればいいか。次の目的を設定すればいいのです。至極単純なことです。 しかし、話はそれほど単純ではありません。次の目的を設定できない、あるいは、しないということがあるからです。そうなると、そこで学びは終わってしまいます。ある目的のために勉強や仕事をしていた人はその目的を達成できなかったら、そこで学ぶ意欲を失ってしまうこともあります。 問題は、アリストテレスが学ぶことをキーネーシスだと考えているところにあります。 むしろ、学ぶことをエネルゲイアと考えてもいいのではないでしょうか。つまり、「学びつつあるとともに学んでしまっている」と考えていいということです。たしかに、学んでいるその時に直ちに学べるわけではありませんが、何かを覚えたり、何か結果を出したりするために学ぶのでなくてもいいということです。学べば結果が出るかもしれませんが、結果を出すという目的が学ぶことの「外」にあるのではなく、学ぶことの「内」にある、つまり、学ぶこと自体が目的だと考えればいいのです。 結果を出すための仕事や勉強はあります。しかし、キーネーシスとしての学びであっても、学んでいる時に絶えず目的を意識する必要はなく、学ぶことを楽しんではいけない理由はありません。このような学びであれば、そのために学ぶ目的に到達しても終わりはありません。 【译文】 有些人在学习时无法保持动力。当取得成果时,学习就结束了,但当目标达成时,失去动力也是理所当然的。 那么,如何才能保持动力呢?答案是设定下一个目标。这是很简单的事情。 然而,事情并不那么简单。因为有时候我们无法设定下一个目标,或者根本不去设定。这种情况下,学习就会终止。那些为了特定目标而学习或工作的,如果没有实现那个目标,可能会失去学习的意愿。 问题在于,亚里士多德认为学习是一个过程(kinesis)。但实际上,我们也可以把学习看作是一种活动(energeia)。也就是说,可以认为“在学习的同时已经学到了”。确实,在学习的当下并不能立刻学会某些东西,但学习不一定是为了记住什么或取得什么成果。虽然学习可能会带来成果,但这个成果的目标不在学习的“外部”,而在学习的“内部”,也就是说,把学习本身作为目标就可以了。 当然,有些工作或学习是为了取得成果而进行的。但即使是把学习看作一个过程(kinesis),在学习的过程中也不需要时刻意识到目标,也没有理由不能享受学习。如果以这种方式学习,即使达到了学习的目标,也不会有终点。
- #195 学ぶと何が起こるのか16
『ゆっくり学ぶ』P073-074,原文和译文如下 【日文】 アリストテレスはこのような行動を「キーネーシス」と呼んでいます。アリストテレスは家を建てることを例にあげていますが、その例に即していえば、「家を建てつつある」と同時に「家を建ててしまった」とはいえません。家を建てるという行動の目的は、家を建てている最中ではなく、建て終わった時に達成されるということです。 しかし、人間の本来の行動のあり方はこのようなキーネーシスではなく、「エネルゲイア」であるとアリストテレスは考えます。 エネルゲイアとしての行為においては、目的は行為の「内」に存在します。行為自体がそのまま目的であるということです。それは常に完全で「どこからどこまで」という条件とも「どれだけの間に」ということにも関係がありません。「なしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことです。 例えば、ダンスがこのエネルゲイアとしての行為の例になります。ダンスにおいては、踊るという行為はそれ自体が目的で、踊った結果、どこかに到達するでしょうが、どこかに到達することを目的としてダンスをする人はいないでしょう。 「人は見ていると同時に見てしまっているし、思慮しつつあると同時に思慮してしまっている」 見ることの目的は見ること、思慮する(考える)ことの目的は考えることです。活動それ自体の他に活動の目的はありません。 問題は、アリストテレスがこの引用の後に次のようにいっていることです。 「学びつつあるとともに学んでしまっているとはいえない」 アリストテレスがこのようにいうのは、学びはキーネーシスであると考えているからです。 「学びつつあるとともに学んでしまっている」のであれば、誰も苦労しないといいたい人はいるでしょう。また、学ぶことは多くの人にとって、何かのためにするものになっています。勉強は試験でいい成績を取るためであったり、大学の入学試験に合格するためです。 どれほど頑張っても結果を出せなければ意味がありません。目的に到達すれば勉強は終わります。 【译文】 亚里士多德将这种行为称为"kinesis(运动性)。亚里士多德以建造房子为例,但根据这个例子来说,我们无法同时说"正在建造房子"和"已经建造好了房子"。建造房子这一行为的目的,不是在建造的过程中,而是在建造完成之时才能实现。 不过,亚里士多德认为人类的本质行为并非这种"kinesis",而是"energeia(活动性)"。 作为"energeia"的行为,目的存在于行为本身之中。行为本身就是目的。它总是完整的,与"从何处到何处"或"在多长时间内"都没有关系。"正在进行"与"已经完成"是同时发生的。 比如跳舞就是"energeia"行为的一个例子。跳舞的目的就是跳舞本身,跳舞可能会让人实现某种结果,但没有人是为了实现结果而去跳舞。 亚里士多德自己给出了这样的例子:"人们既在看,又已经看完了;既在思考,又已经思考完了。"看和思考的目的就是看和思考本身,除了活动本身,再无其他目的。 问题在于,亚里士多德在这段引言之后说:"但是,学习中的人还不能说已经学会了。"这是因为亚里士多德认为学习属于"kinesis"范畴。 如果说"学习中的人已经学会了",那么任何人都不用再费力学习了。对很多人来说,学习是为了某个目的,比如考试成绩或者考入大学。 如果即使努力了也无法实现目标,那么学习就失去了意义。目的实现后,学习就算完成了。
- #194 学ぶと何が起こるのか15
『ゆっくり学ぶ』P071-072,原文和译文如下 【日文】 学びつつあるとともに学んでしまっている 学ぶことには何か達成するべき目的があると普通は考えられていますが、これが自明のことなのか、むしろ、何かのために学ぶという考え方に問題があるということを前章で見ました。 学ぶことに限らず、人間の行動は次のようなものと考えられています。 人は何らかの目的に向かって行動しますが、目的は行動の行き着く先、行動そのものの「内」ではなく「外」にあります。そうした行動は目的に到達するまでは未完了で不完全です。そして、目的に到達すれば、行動は消滅します。 通学や通勤であれば、できるだけ早く効率的に目的地に到着しなければなりません。もしも移動の途中で事故に遭うなどして目的地に到着できなければ、その行動は未完了で不完全です。通学や通勤は学校や職場に行って勉強、仕事をするための手段であって、それ自体が目的ではありません。「なしつつある」ことではなく、何をどれだけの時間で「なしてしまった」かが重要です。 【译文】 学习的同时学会 学习通常被认为是为了达到某个目标,但在上一章中我们已经看到,这种观点是否显而易见,或者说,为了某个目的而学习的想法本身是否存在问题。 不仅限于学习,人类的行为通常被认为是这样的:人们为了某个目的而行动,但目的在行为之“外”,而不是在行为之“内”。这种行为在达到目的之前是不完整的。如果达到了目的,行为就结束了。 就像上学或上班一样,必须尽快高效地到达目的地。如果在途中发生事故,无法到达目的地,那么这个行为就是未完成的、不完整的。上学或上班只是去学校或工作地点学习、工作的手段,本身不是目的。重要的是在多长时间内完成了什么,而不是“正在做”的过程。
- #193 学ぶと何が起こるのか14
『ゆっくり学ぶ』P070-071,原文和译文如下 【日文】 感情についても同じことがいえます。人を説得しようとする人は感情を使います。その際、レトリックを駆使して話します。 真実を明らかにするためには感情は必要ではありません。ロゴスによって、つまり言葉で論理的に話せばいいのです。そうすることで真実を明らかにするのであって、説得するのではありません。説得は、結論が初めから決まっていてそれを相手に押しつけようとすることですが、そのためには言葉巧みに話し、感情に訴えます。そのため、その時は説得されて同意しても、後になってなぜそうしたかわからないということが起こります。 感情に流されないようにするためには、ロゴスによって冷静に吟味しなければなりません。具体的には、言葉巧みに語られた言葉を文字に移して何度も読み返す必要があります。 最近の政治家の答弁は言葉巧みどころか、少しも論理的ではありません。たずねられたことに答えない、あるいは答えられない人が多く、文字にするまでもなく支離滅裂であることは明らかですが、文字にすると論理的でないことがいよいよわかります。 今は動画をインターネットに公開する人が増えました。文字を読むことに慣れなかったり、そうすることを好まなかったりする人には好評のようです。しかし、これが学ぶための最善の方法であるかというと必ずしもそうはいえません。話し手の表情を見て話を聞くとよくわかるように思ってしまいますが、話されていることが正しく理解できるかといえばそうともいえないでしょう。感覚的なものがむしろ理解の妨げになることがあります。 【译文】 关于感情,也是同样的道理。想要说服别人的人会利用感情。在这种情况下,他们会巧妙地运用修辞手法来说话。 为了揭示真相,并不需要感情。只需通过逻辑,即用言语进行逻辑性的谈话。这样做是为了揭示真相,而不是为了说服别人。说服是指从一开始就确定了结论,然后试图将其强加给对方。为了达到这一目的,需要巧妙地运用言辞,诉诸对方的情感。因此,当时可能会被说服并同意,但事后往往会弄不明白自己为什么会这样做。 为了不被情感所左右,必须通过逻辑冷静地进行审视。具体而言,需要把那些巧言令色的话语转化成文字,并反复阅读。 最近的政治家答辩不仅不巧妙,而且一点也不合逻辑。很多人既不回答所问的问题,也回答不了问题,不用把话语转成文字就能明显看出其语无伦次,而一旦转成文字,更能清楚地看出其不合逻辑。 如今在互联网上公开视频的人越来越多了。对于不习惯或不喜欢阅读文字的人来说,这类视频似乎很受欢迎。然而,这是否是学习的最佳方法,却未必如此。看着说话者的表情听他讲话,似乎更容易理解,但能否正确理解所说的内容却未必如此。感官上的东西反而有时会妨碍理解。
- #192 学ぶと何が起こるのか13
『ゆっくり学ぶ』P069-070,原文和译文如下 【日文】 このような判断ができるためには、個別的な知識があるだけでは十分ではありません。 この時はこうしたという経験にもとづいた知識がどれほどあっても、その知識によってうまくいくことがあっても、これは先に見た「正しい思わく」でしかなく「知識」ではありません。個々のケースで「たまたま」ではなく正しい判断ができるためには、個別の現象の根底にあるロゴスを見る必要があります。 このような行動にもとづいての善悪の判断から始めて、さらにどのように生きるべきかを考えなければなりません。それが「学ぶ」ということです。 真実を明らかにする プラトンは、感覚的事実の中での探求とロゴス(言葉、理論)の中での探求を対比しています。 「事物の考察に失敗した後で私は思った。日食の際、太陽を観察し研究する人たちと、同じょうな目に遭わないように気をつけなければならない、と。そういう場合、人は水やその他それに類するものに太陽の姿を映して見るようにしなければ、往々にして目を損ねるからである。何かそれと同じようなことを僕は考えたのだ。即ち、事物を肉眼で直視したり、それぞれの感覚で直接捉えようとすると、精神(魂)がすっかり旨になってしまうのではないか、と恐れたのである。そこで僕は、〔直接見るのではなく〕ロゴス(言葉、理論)に逃れて、事物をその中で考察しなければならないと考えた。 【译文】 这样的判断并非单纯基于个别知识就足够了。即便我们拥有丰富的经验知识,并能在某些情况下取得成功,但这仅仅是"正确的直觉"而非真正的"知识"。要能在各种具体情况下做出正确判断,而非仅凭"偶然",我们需要深入了解事物背后的本质规律 - 即所谓的"理性"(logos)。 从对行为善恶的判断开始,我们还需要进一步思考如何应该生活。这就是所谓的"学习"。 揭示真相 柏拉图对感性事实的探索和理性(logos)的探索进行了对比: "在观察日食时,我意识到,我们必须小心谨慎,不要像那些观察太阳的人一样伤害自己的眼睛。因为他们通常会用水或其他东西映照太阳的影像,而不是直视太阳。我产生了类似的担忧,即直接用肉眼观察事物,或凭感官直接把握事物,可能会损害我们的心灵(灵魂)。因此,我认为我们必须逃离直接观察,而是通过理性(logos)来思考事物。"
- #191 学ぶと何が起こるのか12
『ゆっくり学ぶ』P068-069,原文和译文如下 【日文】 緊急の行動を促す合図ではないこともあります。子どもや孫が学校に行かなかったり、働かないで家にいたりするのを見た時、それを緊急ではなくても何らかの行動を促す合図と受け取ります。イライラしたり、「早く学校(会社)に行きなさい」と叱ったりするのがよくある反応ですが、中には無反応という反応をする人もいます。静観する人はそうするために決心が必要ですが、無反応な人は起こっていることにただ無関心です。 合図を受け取った時に、どんな判別をして対処することが最善なのかを絶えず検証しなければなりません。そのためには疑わなければなりません。世間でいわれていること、多くの人がいっていることが正しいとは限らないからです。 三木清は次のようにいっています。 「人間的な知性の自由はさしあたり懐疑のうちにある」 この知性の自由を阻むのが「独断」です。なぜ独断が問題かといえば、状況を離れて善悪の判断をすることはできないからです。 例えば、学校に行かないで家にいることは悪、反対に、学校に行くことは善であるといえるかといえばそうとは限らないということです。ある状況の、ある子どもにとっては、学校に行くことが善でないことがあります。学校でいじめを受けているような場合です。 いじめは不登校よりも先に解決しなければならないので、そういう状況を考慮しないで、とにかく学校に行かないといけないと考えるのは問題でしょう。何が善なのかを個別に判断しなければなりません。 【译文】 也有非紧急行动的信号。当孩子或孙子不去上学或不工作而待在家里时,人们会将其视为某种需要行动的信号,尽管这并不是紧急情况。常见的反应是感到烦躁,或责骂说“快去上学(上班)”,但也有些人会毫无反应。选择静观其变是需要决心的,但毫无反应的人则是对发生的事情漠不关心。 接收到信号时,我们必须不断检验什么样的判断和应对最为恰当。为此,我们需要保持怀疑态度。因为,社会上流传的观点和多数人的看法并不一定总是正确的。 三木清曾说过: “人类智慧的自由首先存在于怀疑之中。” 阻碍这种智慧自由的正是“独断”。独断之所以有问题,是因为无法脱离具体情境去判断善恶。 例如,不能简单地认为不去上学是坏事,去上学是好事。对于某些情况下的某个孩子来说,去上学并不一定是好事,比如在学校受到欺凌的孩子。不去上学的问题应当在欺凌问题解决之后再考虑。因此,不顾具体情况,而一味要求孩子去上学是有问题的。我们必须根据具体情况来判断什么是善。
- #190 学ぶと何が起こるのか11
『ゆっくり学ぶ』P067-068,原文和译文如下 【原文】 善悪を知る さらには、何かを見て「きれい」と判別することだけではありません。何かを知覚するということは、それへの対処、行動への合図を受け取ることでもあります。 例えば、赤信号を見た時、ただ信号が「赤い」とだけ認識する人はいないでしょう。プレーキを直ちに踏まなければならないという合図として受け止めるのです。ボールが飛んできた時にもそれをすぐさま身をかわす合図として受け止めます。そのような合図を受け取った時に、どう反応することが「善」であるかを判別しなければなりません。 今の例でいえば、赤信号を見たらブレーキを踏むこと、ボールが飛んできたら身をかわすことが「善」と判別したということであり、その判別の後に直ちに行動に移します。 ここでいう「善」には道徳的な意味はありません。「ためになる」という意味です。反対に、「悪」は「ためにならない」という意味です。当然、どんな判別も正しいわけではありません。赤信号なのにブレーキを踏まずに歩行者に怪我をさせたり、ボールをよは損ねて怪我したりすれば、そのような判別は間違っていたということです。 【译文】 判断善恶 感知某物,不仅仅是看到某物并判断“漂亮”这么简单,它还意味着应对和接收行动的信号。 例如,当看到红灯时,没有人会仅仅识别出“灯是红色的”,而是会把它当作立即刹车的信号。同样,当看到球飞过来时,我们会把它视为立即躲闪的信号。当接收到这些信号时,我们必须判断怎样反应才是“善”的。 以刚刚的例子来说,看到红灯时踩刹车,看到球飞过来时躲闪,这被认为是“善”的判断,并在判断之后立即采取行动。 这里所说的“善”不是道德意义上的,而是指“有益”。相反,“恶”则是指“无益”。当然,并不是所有的判断都是正确的。如果在红灯时不踩刹车而导致行人受伤,或者没有避开飞来的球而受伤,那么这样的判断就是错误的。
- #189 学ぶと何が起こるのか10
『ゆっくり学ぶ』P066-067,原文和译文如下 【日文】 何かを見てそれを美しいと判別し、「きれい」といえるためには、この判別の中に先験的としかいえない何かが働いていなければなりません。何かを見て「きれい」といわせる究極の根拠、それを理想や規範、基準として判別する何か、これをプラトンは「イデア」と呼びました。 プラトンは、何かを見て「きれい」という時、そういわせる根拠として美のイデアを考えました。それは何かを見て、それが美しいと判別する時に理想、規範、基準として働いています。 プラトンは学ぶことは想起であるといっています。美を例にすれば、この世界で見る美しいものを通じて美のイデアを想起するのです。そうすることで、この世界でのいろいろなものにイデアの面影を認め、イデアをある程度は想起することができるようになります。 しかし、イデアの認識を深めれば深めるほど、地上のいかなるものとも混同しなくなります。先に見たソクラテスの無知の自覚に引きつけていえば、知っていると思っている人はこの世のものをイデアと思い間違っているのです。 イデアを完全に知ることはできませんが、少しでもそれに近づくことはできますし、自分が知らないといえるための前提である完全な知はこのイデアを知っているということです。イデアをまったく知らないのではありませんが、忘れてしまっているのです。学ぶことはこのイデアを想起するということです。 【译文】 为了能够看到某物并判断它是美的,并说出“漂亮”,在这个判断过程中必须有某种先验的因素起作用。让我们能够看到某物并作为判断其“漂亮”的最终依据,作为理想、规范和标准进行判断的某种东西,柏拉图称之为“理念”。 柏拉图认为,当我们看到某物并称其为“漂亮”时,是因为有一个美的理念作为依据。这种理念在我们看到某物并判断其美丽时,作为理想、规范和标准在起作用。 柏拉图说,学习实际上是回忆。以美为例,通过这个世界上看到的美丽事物,我们会回忆起美的理念。通过这种方式,我们能够在这个世界上的各种事物中认出理念的影子,并在一定程度上回忆起理念。 然而,随着对理念的认知越来越深入,我们就越不会将其与地上的任何事物混淆。联系到先前提到的苏格拉底的无知自觉,那些自以为知道的人其实是把这个世界的事物误认为是理念。 虽然我们无法完全了解理念,但我们可以逐渐接近它。而能够说出自己不知道的前提是,存在对该理念的完全了解。我们并不是完全不知道理念,而是遗忘了它。学习就是回忆这个理念的过程。
- #188 学ぶと何が起こるのか9
『ゆっくり学ぶ』P065,原文和译文如下 【日文】 学ぶことは想起すること 目の前に広がる光景を見た時、また、咲き誇る花を見てそれが美しいと思う時に、哲学の言葉では「判別」という言葉を使います。この判別はあらゆる人にとって、あるいは、あらゆる場合に一定不変ではありません。 私が美しいと判別するものを他の人はそうは判別しないことがありますし、自分についても、かつては少しも美しいと思わなかったのに、今は美しいと感じられるということがあります。 また、ベートーベンやブラームスの音楽は美しいという人でも、現代音楽は聴いても心地よくなく、少しも美しいとは思えないかもしれませんし、若い頃は美しいと思わなかった音楽が今では美しいと思えることもあります。 若い時にはクラシック音楽を聴こうともしなかった人が歳を重ねて好きになるということもあります。絵画についても同じことがいえます。 なぜ初めて見た景色を美しいと判別できるのか。過去に見たあれやこれやの景色と比べて美しいと判別するからではありません。なぜなら、もしもそうであれば、初めて見る景色に心を動かされたり、初めて会った人に目を奪われ、さらには心を奪われ、恋に落ちたりするということの説明がつかないからです。 【译文】 学习即回忆 学习本质上是指,当我们看到眼前的景象,或者看到盛开的花朵并觉得它们美丽时,用哲学的术语来说,这叫做“辨别”。这种辨别对于每个人,或者在任何情况下,并不总是固定不变的。 我认为美的东西,别人可能并不认为美;即使对自己来说,过去并不觉得美的东西,现在却觉得美了。 例如,即便有人认为贝多芬或勃拉姆斯的音乐是美的,但听到现代音乐时却可能觉得不舒服,觉得一点也不美;而曾经年轻时不觉得美的音乐,现在却觉得美了。 有些人在年轻时不愿意听古典音乐,但随着年龄的增长,开始喜欢上它。绘画也是一样的道理。 为什么我们能辨别出第一次见到的景色是美的呢?并不是因为我们将其与过去见过的景色进行比较,而得出它是美的。因为如果真是那样,我们就无法解释为什么初次见到的景色会让我们心动,或为什么初次见到的人会让我们目眩神迷,甚至心动,坠入爱河。
- #187 学ぶと何が起こるのか8
『ゆっくり学ぶ』P063-064,原文和译文如下 【日文】 知らないことを知っているという時、次のことを考えなければなりません。 「知らない」というのは「全知」を前提としているということです。完全な知を前提としているので「私は何も知らない」といえるのです。 ギリシア語を学び始めた頃、先輩たちと一緒にプラトンのテキストを読んでいたら、このギリシア語は読めないという議論をしているのです。私は辞書を引き文法書をあちらこちら開け一生懸命読んでも意味が取れなかったのですが、先輩たちは私とは違って、ギリシア語を完全に読め、その上でテキストのこの箇所のギリシア文は読めないといっていることがわかりました。 読めないというのは、プラトンが文法的に間違ったギリシア語を書いたという意味ではなく、プラトンが書いたものが多くの人によって写される過程で間違いが起きたということです。問題になる箇所は写本によって読み方が違うのです。 こんなことがあって、ギリシア語を読めるまでにどれくらいかかるのか途方に暮れたことがありましたが、勉強を続けると、たしかに意味が取れない文があることが少しわかるようになりました。 初学者であれば「わかる」と思って読んでいる文が実は読めないことがあるように、「わからない」ことがわかるのは知るために必要なことなのです。 知識がなくても、わからないことがわかるための前提となっている完全な知があればこそ、ここはこういう意味なのではないかと推測することもできるようになります。 【译文】 当你说自己知道不知道的事情时,必须考虑以下几点。“不知道”是以“全知”为前提的。正因为有完全的知识作为前提,所以才能说“我什么都不知道”。 当我刚开始学习希腊语时,和学长们一起读柏拉图的文本,他们在讨论这些希腊语是无法读懂的。尽管我费尽心思查词典、翻阅语法书,依然无法理解其含义,但学长们却与我不同,他们能完全读懂希腊语,并且在此基础上指出这段文本中的希腊文是读不通的。这里的“读不通”并不是说柏拉图写的希腊语在语法上有错误,而是在抄写过程中出现了错误,导致不同的抄本对这段文字有不同的解读。 经历了这些事情后,我曾一度对需要多长时间才能读懂希腊语感到茫然。然而,随着学习的继续,我逐渐明白确实有些句子是难以理解的。对于初学者来说,那些自以为读懂的句子实际上可能并没有读懂。明白“无法理解”的重要性是获得知识的必要一步。 即使没有知识,正因为有了完全的知识作为前提,我们才能推测这里可能是什么意思。
- #186 学ぶと何が起こるのか7
『ゆっくり学ぶ』P062-063,原文和译文如下 【日文】 読書は著者との対話です。本に書かれている言葉の意味を理解するだけでは十分ではありません。道を教えられてその言葉を理解するだけでは実際に自分が行きたいところへ行けるとは限らないのです。読書においても著者から読者への知の飛び火が必要です。 無知の知 ソクラテスは無知の知、無知の自覚という言い方をします。何かを学ぶことは無知の状態から脱することだと考え、無知から脱する努力をしてきたであろうソクラテスが自分は何も知らないといっているのを読むと、驚いたり困惑したりする人がいるかもしれません。 ソクラテスは知恵があると思われている人のところへ行って次のように考えました。 「私はその人よりも知恵がある。なぜなら、私たちのどちらも善美の事柄は何も知らないだが、この人は知らないのに知っていると思っているが、私は事実たしかに知らないのだから知らないと思っている。だから、このちょっとしたことで、つまり知らないことは知らないと思っているという点で、私の方が知恵があるようだ」 ソクラテスは無知に居直っているわけではありません。何も知らないことを逆手にとって、知者と呼ばれている人よりも優位に立とうとしているのではないのです。 【译文】 阅读是与作者的对话。仅仅理解书中的内容含义远远不够。能理解他人指路的话语,不代表能走到想去的地方。在阅读中,需要作者与读者之间的知识转移和交流。 无知之明 苏格拉底谈论过"无知之明"的概念,认为学习就是从无知状态脱离出来的过程。有人可能会对这位被认为很有智慧的苏格拉底说自己什么也不知道感到惊讶和困惑。 苏格拉底曾经拜访过被人们看作是智者的人,然后他想: "我比那人更有智慧,我们双方都不懂什么是善和美,但是他什么也不懂,却自认为懂,而我则知道自己一无所知。只是这一点的区别,承认自己一无所知,就让我比他更有智慧。" 苏格拉底并不是在故作无知。他并不是借助什么都不知道这一点来试图凌驾于那些被称为智者的人之上。