木曜日にはココアを(3)
店は狭かったけど、なんともほっとする空間だった。行き場のない僕に、「席」があることがなんだかありがたく思えた。初めて訪れたのに自分の部屋に帰ってきたような安堵感。チェーン店のがちゃがちゃした騒がしさとは対極だった。こんなところで働けたら……。
店内を見回し、僕は息を吞んだ。店員らしき男性がちょうど壁に「アルバイト募集」の紙を貼っているところだったのだ。なんというタイミング。僕はどきどきしながらカウンターに座った。
紙を貼り終えた店員がメニューと水を持ってやってきた。50歳ぐらいだろうか。小柄で痩せていて、のほほんとした顔だけど、おでこの真ん中にあるほくろがなかなかのインパクトだった。僕は洒落たデザインのメニューに目を落とし、値段を確認しながら注文をした。
「ホットコーヒーをください」
「ホットね」
ほくろの男性がカウンターの中に入る。コポコポとサイフォンでコーヒーを淹れる姿を、僕はじっと見ていた。
「あの……店長さん、ですか」
「ん。マスターって呼んで。夢だったんだよね、喫茶店でコーヒー淹れるマスター」
マスターはカウンター越しにコーヒーを差し出した。豊かな香りがたちのぼるカップは素焼きだった。飲んでみるとじんわりとやわらかなコクがある。僕はそのひとくちで決心をし、椅子から立ち上がった。
「アルバイトの面接、お願いできませんか。ここで働きたいんです」
マスターは真顔で黙ったまま5秒ほど僕を見て、こう言った。
「いいよ。じゃ、正社員ね」
僕はぽかんと口を開けた。まだ名前すら伝えていないのに? しかも、アルバイトじゃなくて正社員?
「でも、履歴書とか、身分証明書とか」
「いらない。俺、見る目だけはあるんだ。アルバイトのほうがいいの? 正社員だと困る?」
「そんなことは……」
「じゃ、決まりね」
マスターはカウンターを出ると、アルバイト募集の貼り紙をぺりぺりとはがした。
そんなふうにして僕はマーブル・カフェの正社員となったわけだけど、マスターはそれからすぐ「しばらく留守にするから、あとはワタルくん、適当にひとりでやって」と言い出した。
「いずれ誰かに譲るつもりでいたんだ。思ったより早く君が来てくれてよかったよ」
「だって、喫茶店でコーヒー淹れるマスターが夢だったんじゃないんですか?」
釈然とせずに訊ねると、マスターはなぜかうっとりするようなまなざしで答えた。
「夢はかなったところから現実だから。俺、夢が好きなの。だからもういいんだ」


